七社神社
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枯松を祭る文 読解(横書き)

 


碑文は漢文のため 読解を日本漢詩研究家の 石島 勇 先生に依頼し 作成していただきました 七社神社




【本文】

(私に句読点・カギ括弧等を付し、段落を区切った。)

祭枯松文碑
祭枯松文
靑淵澁澤男飛鳥山别業南園、有一老松直立數十尋・圍。
稱之偃蓋天。蓋數百年物。故老相傳、「此地、原屬西原村、有幕府别殿。將軍屢來、或放鷹、憩此下。元祿初、豪農伊藤伊兵衞卜居此蔭。」則松之生植在幕府以前、可知也。男、深愛之、暇則晨夕盤桓其下。頃日、俄然枯死、惋惜不措。屬余、代作祭文云

 

噫、十八公、曷舍吾逝。公、生此地、不知何歲。將軍來憩、在其初世。 欝々亭々、已足陰翳。壽考累百、不三則四。 幕府今廢。 皇威大振、下生瑞苓、上宿祥雲。惠風恩露、更卜千年。
吾來結莊、公也健在。公主、吾客、靑眼相待。無大夫封、實山中宰。盤桓淸蔭、朝拜暮禮。身埋塵埃靖節、心擬顧公經歷雪苦霜辛、「歳寒後凋。」。 眞吾同倫。凢桃俗李、獻諛呈巧、超然其外。眞吾師表。對詠廿歲、唱塤和箎。

何料、一朝、蒼髯色衰、鱗甲剝落。其因不知。或謂、昭代工場競起、炭烟吹促枯死。然則、捐身圖益報昔節操、至此益崇。雖然、吾也喪師别友、倀然無依。 矧此老朽。 秪當奮、代公保壽、益礪節操、勿受公咎。謹奠祭文、加一卣酒。嗚呼、哀哉、庶幾來享

明治四十四年五月

八十一叟中洲 三島 毅撰
靑淵 澁澤榮一書

赤字部分は旧字体を新字体に変えて記載しています)

【現代語訳】

青淵澁澤男爵の飛鳥山別荘の南園に、高さ十メートルでひと抱えほどの直立した一本の老松があった。これを偃蓋遮天と称した。思うに、樹齢数百年を経た価値ある松なのであろう。土地の古老が言い伝えるところによると、「この地はもと西ケ原村に所属し、幕府の別殿 が設けられていた。将軍がしばしばこの地を訪れることがあり、鷹狩りなどを催した際にはこの松の木陰で休憩することがあった。元祿 の初めには、豪農の伊藤伊兵衛がこの松の木陰に住居を定めた。」と言うことだ。かくて、松が生えるか植えられるかしたのは、江戸開府以前のことであったとわかるであろう。男爵はこの松の木を深く愛し、暇さえあれば朝夕を問わずその松の木のあたりを散策することを楽しみにしていた。しかし、このごろ、その松の木がにわかに立ち枯れてしまって、悲しみおしむ気持ちをとても押さえられなかった。そこで、(男爵から)私(中洲)に、祭文を代わって作れとの依頼があったという次第だ。

 

ああ、十八公は、どうして私を見捨ててあの世に旅立っていってしまったのか。公がこの地に生えてから、何年経過したのかはわからない。 将軍がこの地を訪れて公が生えているあたりで休息したというのは、徳川の世の初めのころのことであった。公はこんもりとしげり高くそびえ立つて、すでにうす暗い木かげを形成していた。その齢を数えるに百を三たび重ねるのでなければ四たび、(つまり三、四百年は経っているであろう。)しかし今や幕府は瓦解し、存在しない。そして天皇の威光ははなはだ盛んになって、下にはめでたい草々が生い茂り、上にはめでたい雲がとどまっている。(かように民草も国家も繁栄を謳歌している。)めぐみの風いつくしみの露のような天皇の恩恵はさらに永遠の繁栄をあたえてくださることであろう。
折しも、私はこの地を訪ねて別荘を建てることになり、その頃には、公もまた健在であった。(公と私の関係は、)この地に元々生えていた公が主であって、私はあとからやって来た客ということになるであろう。公は私を好意をもって青眼で迎えてくれた。公は(秦の始皇が太山で 風雨を松樹の下に避け、その樹を五大夫に封じたようには)大夫に封じられることはなかったが、山中に隠れて国家の大事には私の相談を受ける役割を担ってくれた。私は(公に相談するとともに、)清らかな木かげのあたりを散策するたびに公への朝夕の拝礼を欠かすことはなかった。公は、身はけがれ多い俗世で人知れず正義に安んじみさおを守っている。また、心は公が長年雪や霜の厳しさを経験してきたことを振り返るにつけ、あたかも「時節が寒くなると初めて、松や柏が、他の草木は枯れしぼむのに、後までしぼまないで残っているのがわかる。(このように、大事に遭遇して初めて君子の節操があることがわかるものだ。)」と孔子が言っているとおりだと思う。まことに公は、私のともがらだ。ありふれたももやすもものような凡俗の人々が有力者にこびへつらい、言葉巧みに取り入ろうとしているが、公はそうした卑俗な世とはかかわることなく孤高を守っている。まことに私のお手本だ。公と私は二十年もの間、兄弟が仲よく笛をふいて合奏するように、向かい合って詩を吟詠する仲であった。
どうして思い及んだであろうか(いや、思いもかけないことだった)、ある日にわかに老いて灰色になったひげのように葉は色あせ、うろこやこうらのような樹皮ははがれ落ちてしまっていた。その原因はわからない。あるいは、太平無事の世になって工場が競うように建ち並び、石炭が燃料に用いられて、煙突からもくもくと立ちのぼる煙りに有害物質が含まれていたため、とうとう立ち枯れてしまったのではないかと言うことだ。そうであるなら、公もまた我が身を犠牲にして国益追求に協力し、国家に恩返ししたということになる。公の一貫したかたくみさおを守って変えない態度は、たとえ立ち枯れてしまったとしても、ますますあがめずにはいられない。そうではあるが、私もまた師はすでになく友と死別したため、途に迷っても頼りとする存在がいなくなってしまった。ましてこのように年をとって役にたたない身であれば、なおさら心細く感じられることだ。ただ奮起して公の代わりに長生きをし、ますます節操を磨き公のお叱りを受けないようにしなければならない。謹んで祭文を一樽の酒とともにお供えする。ああ、哀しいことだ、(公の魂よ、)ここに来臨されてお供えを受け取ってほしい。
明治四十四年五月

八十一叟 中洲 三島 毅撰
靑淵 澁澤榮一書

【補註】

 唐以後の文体。まえがき。大略序のようであり、やや簡要なるものを引と名づけた。

數十尋 一尋は、日本では六尺(1.82メートル。)。

十八公 松の異名。「松」の字を解析すると、「十」と「八」と「公」の組み合わせになる。本文(「引」を除く。)では、松は擬人化されている。

靑眼 親しい人にたいする目つき。「…籍、禮敎に拘らず。能く靑白眼を爲し、禮俗の士を見れば、白眼を以つて之れに對す。嵆喜、來たりて弔ふに及び、籍、白眼を作す。喜、懌ばずして退く。喜の弟、康之を聞き、乃ち酒を齎し、琴を狹んで造る。籍、大いに悦び、乃ち靑眼を見はす。是れに由つて、禮法の士、之れを疾むこと讎の如し。… (原漢文。『豪求』巻下、「阮籍靑眼」。)

大夫封 松は「大夫」の異名があり、秦の始皇が、太山にのぼり、風雨を松樹の下に避け、その樹を五大夫に封じた故事に基づく。(『史記』封禪書)

山中宰 「山中宰相」に同じ。山中に隠れて国家の大事には天子から相談を受ける人物。梁の陶弘景の故事に基づく。(『南史』陶弘景傅)宰相の材能を有して空しく山中に終わるものをいう。(『宋史』鄧孝甫傳)ここでは、公が「山中宰」で、榮一が相談する相手ということになる。

歳寒後凋 『論語』 子罕第九に「子日はく、『歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る。』と。」(孔子言う、時節が寒くなると初めて、 松や柏が、他の草木は枯れしぼむのに、後までしぼまないで残っていることがわかる。このように、大事に遭遇して初めて君子の節操があることがわかるものだ。) [新釈漢文大系1吉田賢抗著『論語』。明治書院。」とあるのに拠る。「彫」は、「凋」に同じで、「しぼむ」の意。

凢桃俗李 ありふれたももやすもも・平凡な人のたとえ。

唱塤和箎 「壎篪相和す」に同じ。「塤」はつちぶえ、「箎」 はちのぶえで、ともに楽器の笛。兄弟がふいて合奏することから、兄弟の仲がよいことをいう。

三島中洲について 名は毅、字は遠叔。中洲と号す。天保元(一八三〇)年十二月九日生、大正八(一九一九)年五月十二日歿。享年九十。備中窪屋郡 (現在の岡山県都窪郡) 中島村の人。初め松山藩儒山田方谷に学び、ついで伊勢の津藩儒斎藤拙堂の塾に学ぶこと五年、安政四(一八五七)年江戸に出て昌平黌に入り、佐藤一斎・安積艮斎に学ぶ。六(一八五九)年板倉侯に招かれて松山藩のちの高梁藩に仕え、藩校有終館の学頭となる。また、家塾を開いて虎口渓舎と称した。維新後は、明治五(一八七二)年法官となり、新治裁判長・大審院中判事などを歴任したが、十(一八七七)年退官して麹町一番町に漢学塾を設け、二松学舎と名づけて子弟を教育した。その後は高等師範学校教授、東京帝国大学文科大学教授となり、また東宮侍講、宮中顧問官を歴任した。その学は初め朱子学であったが、晩年は陽明学に転じ、実用を重んじた。 また、詩文を善くした。文学博士。著に『中洲詩稿』二巻・『中洲文稿』十二巻・『論語講義』一冊・『論語私録』四巻・『大学私録』一巻・『中庸私録』一卷・『孟子私録」七巻・『虎溪存稿』一冊などがある (『漢學者傳記及著述集覽』、『日本漢文学大事典』に拠る。)。榮一が中洲の面識を得るに至った経緯について、榮一は、「明治十二・三年頃と覚ふ、玉乃氏 (筆者注 : 周防国岩国の学者、玉乃世履。民部省に出仕してい た頃、大蔵省に出仕していた榮一と親交を結んだという。)自分に謂ふて日く、三島中洲は学間も深く文章も善くし、人物も臧し、相交りて可なりと、共紹介に依りて中洲先生と交りを結べり」と語っている。明治十六年、 故千代夫人のために榮一が中州に碑文の撰述を依頼したところ、「御書き下されたる文章は能く真に逼り、情を写し、 深く感服して 先生の大文章家たることを知れり、是れより一層深く御交際申上げ」るようになったという(『澁澤榮一傳記資料』第四十五巻、五七四、五七五頁。)。

令和三年二月六日   石島 勇 作成


このページは七社神社がホームページ用に入力したものです。

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