御由緒
歴史
「江戸名所図会 無量寺 六阿弥陀第三番目 七社(ななのやしろ)」当神社は往昔の御創建ながら、寛成五年(1793)の火災により古文書、古記録等を焼失したため詳らかではありません。 しかし、翌年9月秋分の日に御社殿は再建され、故にこの日を当社の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、「江戸名所図会」には無量寺の高台(現・古河庭園内)に「七社(ななのやしろ)」として描かれています。
明治時代になり、元年(1868)に神仏分離が行われ翌2年に一本杉神明宮の社地に遷座され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。
また、「新編武蔵風土記稿」には、「西ヶ原村七所明神社、村の鎮守とす紀伊国高野山四社明神をおうつし祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり云々」と記されています。
さらに、この境内から隣地にかけての一郭は「七社神社裏貝塚」として知られ、縄文土器・弥生土器・土師器(はじき)等が発見され古代人の生活の場であった事がうかがわれます。現在でも、西ヶ原・栄町の総鎮守として篤い崇敬を集めています。
御祭神
●伊邪那岐命(イザナギノミコト)
神代七代の最後に生まれた男神で、天の御柱を周り伊邪那美命と結婚し、国生みを成し遂げ、多くの神々を生み出した天津神。
●伊邪那美命(イザナミノミコト)
神代七代の最後に生まれた女神で、天の御柱を周り伊邪那岐命と結婚し、国生みを成し遂げ、多くの神々を生み出した天津神。
●天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
天照大神が天の石屋に閉じこもった際「祝詞(のりと)」を奏上した神で、中臣の祖神として信仰され、祝詞の神とも言われている。また天孫降臨の際には邇々芸命(ニニギノミコト)の従者として共に降臨した。
●伊斯許理度賣命(イシコリドメノミコト)
天照大神が天の石屋に閉じこもった際「八咫鏡」を鋳造した、鏡作りの祖神。また天孫降臨の際には邇々芸命(ニニギノミコト)の従者として共に降臨した。
●市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)
天照大御神と須佐之男命の誓約(うけひ)の際、成った宗像三女神の一柱の神。航海の守護神・水の神。
●仲哀天皇(チュウアイテンノウ)ー帯中日子命(タラシナカツヒコノミコト)ー
第十四代天皇。倭建命(ヤマトタケルノミコト)の子、応神天皇の親。
●応神天皇(オウジンテンノウ)ー品陀別命(ホムダワケノミコト)ー
第十五代天皇。母は神功皇后。八幡信仰の祖。厄除け・成功勝利の神徳。
渋沢栄一翁ゆかりの神社
明治十二年渋沢栄一翁は西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構え、明治三十四年には飛鳥山邸を本邸とし七社神社の氏子となりました。
崇敬心も篤く大正九年には、渋沢栄一翁を筆頭とする諸氏の寄付により社務所が建築され、また渋沢栄一翁揮毫の社額・掛け軸を始めとした奉納品が神社に納められているなど、七社神社は渋沢栄一翁ゆかりの神社でもあります。
宝物
境内
●末社
境内には末社として天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峯神社・疱瘡社(ほうそうしゃ)が祀られています。一本杉神明宮は、もともとこの地に祀られていた神社ですが、七社神社の遷座により末社となりました。当時の一本杉の御神木は古木として現在も社奥に切株が残っています。
天祖神社
祭神 天照大御神(アマテラスオオミカミ)
豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)
もともとこの地に「一本杉神明宮」として祀られていました。七社神社の遷座により末社となりました。伊勢の神宮の神。
稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
須佐之男命の子で、稲の霊の神。
熊野神社
祭神 熊野大神
紀州熊野の神
菅原神社
祭神 菅原道真
学問の神
三峯神社
祭神 三峯大神
災難除けの神
疱瘡社
祭神 疱瘡神(ホウソウガミ)
天然痘の神。病気平癒・疫病除けのご神徳
●社務所
旧社務所は村の青年会の発起により渋沢栄一・古河家を筆頭とする諸氏の寄付により大正9年(1920)に建てられたもので公会堂を兼ねていました。
社務所は昭和42年に建て替えられましたが、現在も社額を始め諸氏の奉納品が納められています。
●子守犬(こまいぬ)
社殿前のこま犬は雄も雌も子供を守る様子から、子宝・安産・家庭円満のご利益があると云われています。
●七社の桜
社殿前に咲く八重桜(里桜)の品種は御衣黄(ぎょいこう)と福禄寿(ふくろくじゅ)で春には紅白に彩られます。